薔薇泥棒

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 さて、これはどうしたものか。


 昼の労働の時間になって、ブラザー・マルコは胸の前で腕を組んだ。ブラザー・マルコに与えられた労働は、塀で囲まれた修道院の一角にある薔薇園の手入れだった。その薔薇はもう少ししたら、早朝、修道士達の手によって蕾のうちに摘み取られる。そうしてこの修道院では薔薇の香水を作っているのだ。それは聖母マリアに捧げられる大切で、神聖な香水だった。飾り気のないこの修道院でも、その香水の香りがすれば少しは華やぐ。広くはない薔薇園で摘み取られる蕾の数は、さほど多くない。そこから香水を作り出せば、小瓶二つ分にしかならない程度のものだ。しかし三年前からこの修道院で修道士たちを導いているファーザー・ジョンは、この薔薇園とそこから作られる香水を当初から大変気に入っていた。

 ブラザー・マルコは、この困った事態に対処するため、目を閉じて心の中で一度聖母マリアに祈りを捧げた。目を開けると、やはりそこには困った事態が転がっていた。マルコとて、祈りを捧げてこの事態が改善されるわけがないと分かっていたので、とにかく薔薇園へ足を踏み入れた。薔薇は殆どが昨日の労働の時間に、マルコが見たときと同じ姿をしていた。変わっているとすれば、微笑みを抑えたように硬かった蕾が、少しだけマルコに微笑みかけてきた様子が見られるだけだ。薔薇が咲く様子は、本当にマリアがゆっくり微笑みかけてくれる姿を想像させる。他の修道士と違って、労働の時間にその姿を見ることのできるマルコは幸せ者だった。

 しかし、こんなことが起こるとは思ってもみなかった。まさか修道院に入って、薔薇園を荒らしていく者がいるとは。しかも、荒らすなら荒らすでもう少し思い切りよくやれば良いものを、たった数本の薔薇を乱暴に手折っていくだけとは。

 前日に雨が降って地面がぬかるんでいた、というなら足跡も残っただろうが、生憎昨日はこれ以上ないくらい良い天気に恵まれて、地面は乾いていた。マルコはさらに薔薇園からその周囲へと範囲を広げて犯人の手がかりを探した。修道院は高い塀で周囲を囲まれている。マルコは薔薇園から一番近い塀の下をぐるりと回ってみた。

 そこでようやく手がかりといえそうなものを探し当てた。足跡だ。他の場所では土が乾いていて見つからなかったが、塀の上から飛び降りた時の衝撃で、そこだけ足跡が残っていた。マルコの目にはそれが成人した男の足跡に見えた。しかしマルコに分かったのはそれだけだ。特徴のある靴でも履いていれば別だが、町の誰でも履いているような底の磨り減った靴の跡では、それ以上のことは分からなかった。

 仕方がなく、マルコは労働の時間いっぱいを使って他の手がかりを見つけようと努力した。しかし他には何も見つからず、困り果てたマルコは事の次第をこの修道院の院長であるファーザー・ジョンに報告した。

「……というわけなのですが。ファーザー、いかがいたしましょう」

 別に自分が悪いことをしたわけではないのだが、院長室で厳しい顔をした院長と向き合って話すというのはどうにもこめかみの辺りがピリピリとする緊張の時だ。マルコはさり気にファーザー・ジョンの厳しい視線から目線を逸らしながらお伺いをたてた。

「内部の修道士がやったのではないのだな? ブラザー・マルコ」

 ファーザー・ジョンは立派な椅子に腰掛けて、その長い足を組んでいる上に、さらに長い指を組んで置いていた。そのサファイアのように深い青の瞳が、自分の修道院内で起きた由々しき事態に細められ、鋭さを増している。整った顔立ちをしているが、その眉間によっている皺によって、今は怖いもの知らずの子どもでさえ彼を避けるだろう、とマルコは確信できた。

「はぁ……。塀の下に足跡を残しておりましたから、外部の者だと思います」

 マルコはとにかく懸命にファーザー・ジョンを真っ向から見ないように心がけ、それでもファーザーには不審に見えぬようにと慎重に答えた。内部の者ではないと知っても、ファーザー・ジョンの眉間に寄った皺は相変わらずであった。当然だ。修道院に外部から入られて、今回は薔薇園が荒らされただけだったが、修道士達に危害が加わるような事態に発展すれば大事だ。修道院長にはここで生活する修道士達――あまり可愛げのない羊達と言ってもいいが――を守る義務があるのだ。

「……とにかくその話はまた後でしよう、ブラザー・マルコ。ウェザー卿の葬儀ミサが始まる」

 ファーザー・ジョンにそう言われて、マルコは昨日棺に納められて礼拝堂へやってきた男の葬儀ミサが、昼からあることをやっと思い出した。今ここで気付いたような顔をしては、折角今までファーザーの厳しい視線から逃れてきた苦労が無に帰してしまう。マルコは覚えていましたとも、という顔をして従順に頭を下げた。

「はい、ファーザー」


 足の長いファーザー・ジョンに置いていかれないように早足になりながら、マルコは礼拝堂へと向かった。他の修道士達もぞろぞろと礼拝堂へ向かって歩いている。そんな中、修道院の入り口からひとりの婦人が召使らしき若い男を従えて、修道士達と同じように礼拝堂へ向かっている姿を見止めたファーザー・ジョンが立ち止まった。マルコは大きなファーザーの背が歩みを止めると、自分もそれに従って足を止め、ファーザー・ジョンの脇から首を覗かせた。

「これは、レディ・アンジェリーナ」

 マルコの目にファーザーの前に立って礼儀正しく頭を下げている女性が映った。それは棺に収まって礼拝堂で眠っているウェザー卿の愛娘アンジェリーナだった。ウェザー卿の妻で、アンジェリーナの母である女性は先に礼拝堂へ入ったらしい。

「ファーザー、今日は宜しくお願いいたします」

 美しい花のような娘だった。色白の肌。そして頬は微かに紅色を帯びて、唇は小さく、灰緑の瞳をしていた。マルコは次にその若い娘の後ろで頭を低くしている男を見た。顔はよく見えなかったが、まだ若く、同じように若い女主人の後ろを、距離を置いて従っている。むき出しの腕を見ると、しなやかな筋肉をまとっていることがよく分かった。そこでマルコはもう一度娘の方を見た。娘はファーザーの後ろから顔を覗かせている背の低い修道士の姿に気付いて、にこりと微笑んだ。父親を失った悲しみからはまだ脱していないが、それでも何かしらの希望を持った笑みだった。礼儀正しく微笑み返しながら、彼女に慰めを与えたものは何だったのだろうか、とマルコは思った。そしてマルコは、アンジェリーナの小さな手に飾られた花に目を向けた。

「…………おや、その薔薇は、いかがなさいました」

 マルコと同じようにアンジェリーナの手に収まっている花を見つけ、ファーザー・ジョンがそう尋ねた。そしてファーザーの視線がちらりと後ろにいるマルコへと向けられる。

「今朝、私の部屋のベランダに置いてあったのです。まだ蕾ですが、父の棺に入れて差し上げようと思って……」

 そう言ってアンジェリーナは小さく微笑んだ。なるほど、彼女に慰めを与えたのは夜のうちに届けられた数本の薔薇の蕾。マルコはファーザーに向かって小さく頷いた。ファーザーはそれを見て穏やかに微笑んだ。

「……なるほど。それは良いことです、お父上も喜ばれましょう」

 そしてアンジェリーナは薔薇の蕾を抱えたまま、礼拝堂へと消えていった。ファーザー・ジョンはとにかく葬儀ミサを終えることだけを考えるようにしたようだ。何も言わず礼拝堂へと向かって行く。マルコが小さく頷いたことで、アンジェリーナ嬢を慰めた花がこの修道院から摘まれたものであると確信しながらも。

 マルコはファーザーが知っている以上のことを知りえたような気がしていた。ファーザーがアンジェリーナに花のことを尋ねたとき、マルコはアンジェリーナの従僕をさりげなく観察していた。下げられた頭がアンジェリーナ嬢の手に握られた薔薇の話に触れると少しだけ動揺したように動いた。それを、マルコは見ていた。

 葬儀ミサはファーザー・ジョンの低く響く声で粛々と進められた。トンスラ頭の修道士達が並ぶ礼拝堂で、最前列ではアンジェリーナ嬢とその母が黒い喪服を着て死者のために祈っていた。マルコは従順に祈りに没頭しているふりをして、二人の女主人の後ろで祈っている従僕の姿だけを見つめていた。男はどこか落ち着きがなく、特に祭壇右脇にある聖母マリアの像へは視線を向けないようにしているようにマルコには見えた。マルコはミサ中に数回出そうになった欠伸を噛み殺した。

 ミサを終えると棺の蓋を完全に閉じる作業が入った。アンジェリーナ嬢はさっと父の棺に近づくと、持っていた薔薇の蕾を父の胸の上に置いた。その瞳からは悲しみと、そしてどこか諦めのような感情が涙となって流れ落ちた。死んだ者をいつまでも哀しんでいても始まらない。特に彼女は若いのだから。

 そして修道士達はまたそれぞれの作業へと散っていった。そんな中、ミサを終えてウェザー夫人と話していた院長を待ち伏せして、院長が何か言うよりも早くマルコはこう告げた。

「ファーザー。今夜の読書課の時間、私に薔薇園を見張らせてもらえませんか?」

 読書課の時間には、修道士達はそれぞれの狭い部屋に篭って誰とも口を利かずに本を読むことが義務付けられていた。しかし問題のあった薔薇園がまた襲われることを危惧していた院長は、何か知っている風なマルコに眉間の皺を濃くしたが何も言わず、マルコの願いを聞き入れてくれた。


 やがて夜になり、修道士達はそれぞれの部屋に篭って読書課の時間に入った。マルコは一人こっそりと部屋を抜け出し、まるで猫か泥棒のように足音をさせず、薔薇園へと向かった。辺りはもうすっかり夜の色に染められており、静まり返った修道院は正直不気味だった。

 マルコはようやく薔薇園へと到着した。そこは礼拝堂よりも一層強く聖母マリアの力に満ちていて、膨らんだ薔薇の花の蕾がランプのように柔らかな光を放っていた。マルコはその優しげな雰囲気にほっと息をついた。そして薔薇園の隅にある石の上に腰を下ろした。ぼんやりと星を見上げていると、マルコが予期していた通り、静かだが高いところから地面に下りた足音がしっかりと聞こえた。マルコがさっと立ち上がると、昼間見つけた足跡と同じ場所に、あの従僕が立っていた。

 従僕はマルコと目が合うと、酷く慌てた様子で身を翻し、また壁に上ろうと試みた。それを見たマルコはその背に静かに呼びかけた。

「逃げることはない。お前が薔薇を摘み取ったわけは分かっている。盗みは良い行いではないが、お前の行為によってアンジェリーナ嬢は心の慰めを受けたことだろう」

 マルコの言葉は静かだが、しっかりと男の耳に届いたようだ。男は壁に上ろうと無様に上げていた手足を、ゆっくりと下ろした。マルコはまだ背を向けている男に、辛抱強く話しかけた。

「ここの薔薇は聖母マリアの恩寵で咲いている。そしてその恩寵への感謝として聖母マリアに捧げるために摘み取られるのだ。聖母は心の広い方だから、私が多少お前に花を分けたからといってお怒りにはならないだろう」

 ようやく男がゆっくりとマルコの方を向いた。従僕らしく質素な身なりをしていたが、ようやく上げた顔は若々しく逞しい男の顔だった。美男の部類に入るだろうとマルコは思う。

「摘み取られた薔薇の花で、一人の美しい花が輝きを取り戻すというならなおさらのことだ」

 マルコに言われて、男の頬が微かに薔薇色に染まった。本当は彼女のために置いた薔薇の花。確かに彼女はそれで慰められはしたが、それを彼女の父のためのものとして棺に入れてしまった。だからこそ、従僕は今夜また修道院の薔薇園へと忍び込んだのだろう。

「良いか、自分で摘み取るようなことはするな。お前の摘み取り方は乱暴で、薔薇を痛めつける。お前は剪定のために切られた花が都合よく塀の下に置いてあるのを、そのままでは枯れてしまうから持って行くのだ」

 マルコは鋏を取り出した。剪定は必要な作業だったので、マルコは決して嘘はついていない。ただ今年は少しだけ、いつもの年よりも多く剪定することになってしまうだろう。修道院長にもそう言わなければならない。

 マルコは剪定した薔薇の枝を、壁際で立ち尽くしている男の前へと持っていった。いかにも剪定した薔薇をより分けた結果、土の上に置き去りにしたようにして地面へ置く。そうしてからマルコは薔薇から離れる。男はマルコが十分に離れてから、地面に膝をついて薔薇を拾った。まるで愛しい恋人を持ち上げるような仕草で。

「……ブラザー、感謝します」

 初めて聞いた男の声は、その顔によく似合った深く、若い声だった。マルコは思わずにこりと笑う。本当はもっと厳しい顔をしなくてはならないと分かっていたのだけれど。

「感謝は聖母に捧げるのだ。この花を咲かせて下さる、我らのマドンナにな」

 男はそれに深く頷き、軽く十字をきって壁を乗り越え、愛しい女性の所へ駆けていった。


 数日後、葬儀をすべて終え、ウェザー卿夫人と娘のアンジェリーナは家へ帰って行った。帰り際、夫人とアンジェリーナ嬢は修道院へ顔を出し、院長と短く話をした。マルコは丁度、二人が修道院の門から出て行く姿を見かけた。夫人の方はまだ悲しみに顔を翳らせていたけれど、アンジェリーナの顔は心なしか、葬儀の時よりもさらに明るさを増していた。そして彼女の視線の先に、あの従僕がいた。彼女の頬は、薔薇の花のように色づき、マルコはあの従僕が、いずれ修道院の壁とは別の壁を、彼女のために乗り越えるだろうと思った。彼女の方も、きっと壁のすぐ下で待っているに違いない。

 薔薇の収穫時期まで、あと少し。今年はきっと、より高い香りを放つ香水ができることだろう。若い男女の、恋のエネルギーと、それに微笑む聖母のオーラを得て。

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